同質性の弊害

言語、年齢、家族構成、生活水準…。
自分はこれまで、ある程度の同質性が保たれている環境の中で育ってきたように思う。


同質性の中で得られるのは、すでにある自分の中の価値観との心地よいフィット感、安堵感、安心感。





ある一定の価値観を形成するまでの時期、同じ境遇の中にいることは大切だと思う。
しかし、知らぬ間に心地よい環境のみを選択するようになってきている自分に気づく。


環境における多様性を確保し続けなければ、自分の内に壁を構築してしまうことになるのでは。
ものすごく狭い範囲の中にあるものしか認められなくなってしまうのではないか。





卑近な例になってしまうが、僕はタバコを吸っている若い女の人の姿がどうしても好きになれない。
タバコを吸っていることもそうだが、それ以上に吸っている“姿”が苦手である。
おばあちゃんが吸っているのは何も気にならないのだが…。


自分の母親はタバコを吸わない。
親戚の女性も(おそらく皆)タバコを吸わない。
よく考えれば、幼い頃いた環境内にいた女性は、ほとんどタバコを吸わなかったと言っても過言ではないと思う。


そういう環境で育ってきたため、自分の頭の中に「タバコを吸う人がいるのはわかっているが、少なくとも自分の周りの女性はタバコを吸わないものだ」というイメージ(当たり前と考えるベースみたいなもの)が出来てしまっているんだろう。





しかし、日本にいる女性の約14%はタバコを吸っているらしい。
ファミレスでも禁煙席より喫煙席のほうが埋まっているし、その半数は女性客である。

タバコ即NGとか言っているような状況では、まともな恋愛もできないんじゃないかと考えてしまう。





自分の頭で理解できないことに遭遇することはよくある。
まだ知らないだけなのか?
自分の価値観と合わないものなのか?
ただ自分の価値観と合わないものであっても、「自分の頭で理解できないこともある」という領域を用意して受け入れることにしている。


しかし、女性のタバコ姿についてはなかなか思うように処理できない。
頭で考えるより先に、無理だ…と思ってしまう自分がいる。


自分自身、ほんとにくだらないことで悩んでいるなぁと思う。
しかし、「当たり前を再構築するというのがどれだけ難しいか」と一般化すれば、これは検討に値する課題なんじゃないだろうか。





女性のタバコだけではない。


パチンコ、消費者金融など、自分が少しでもマイナスイメージを持っている業種に対して、自分の認識がほんとうに正しいのか?を確かめるということ


自分の就職活動においては、「やりたいことを見つけること」と並ぶ大きな命題であった。


体験したり、いざ中身を見てみれば、それほど嫌うほどのことはなかった。
(結果的には自分のやりたいことじゃなかったので、就職先からははずしたのだが。)


ただ、
・日銭がないのでパチンコには行かない
・借りても返せないので消費者金融にはいかない
のだけれど。





将来、すべてを許せる広い心を持って、“社会の中に存在するあらゆる壁を取り除く”ことをしたい。
自分の中にあるくだらない壁くらい、壊せないようでは始まらない。





食べ物で唯一食べられなかったピーマン


幼稚園の年長時、仲の良かった友達の家で出されたラーメンのなかに紛れ込んでいた緑のもの(ピーマン)を食べてから、そのおいしさに目覚める。


今では、ピーマンの肉詰めは大好物。





タバコも、今年中になんとかしよう。