智弁和歌山、甲子園出場〜学校、教師の意義

母校である、智弁学園和歌山高校が今年の夏も甲子園に出場できることになった。


自己紹介でも
「和歌山です。智弁和歌山って知ってますか?」
「あぁ、甲子園の?」
「はい、そうです。」
のパターンを何度も経験してきた。


前提部分を共有できているって、実はものすごいことである。


野球じゃなくてもいい。
学校を好きになれる要素がひとつでもあれば、誇れるものとなる。





先日聞いた日野社長のお話でも、
学校とはなんだろう?
高校とはなんだろう?
という問いかけがあった。


僕は教師の意義について大変考えさせられた。

教師の役割とは何か?
思うに、「子供の才能を見つけること」であると思う。


その子供がすごいかどうか、どうやって決まるのか。
教師の頭の中にあるすごいに当てはまるかどうかが大きい気がする。

教師の頭の中に入っていないスキル、能力などは、その場で捨てられてしまう可能性も否定できない。


極端に言うが、教師に必要なものは


"圧倒的な知識量"



ではなく、



"想定していなかったものでも、どれだけ受け入れられるかという「心の広さ」"
"その子供の得意なものを無理やりにでも見つけられる「暖かい目」"


なのだと思う。